2007-05-17 第166回国会 衆議院 教育再生に関する特別委員会 第13号
「近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に直接責任をもつ「合議制の執行機関」としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、自主性、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足していると言わざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる。」
「近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に直接責任をもつ「合議制の執行機関」としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、自主性、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足していると言わざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる。」
それとは対照的に、我が国において、八〇年代以降、さまざまな教育荒廃現象が進行し、学力の低下や格差拡大や学習意欲の低下が深刻化しているのは、皮肉にも、教育基本法をなし崩しにし、教育条件の整備充実を怠ってきた結果であると私には思われます。
近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に責任を持つ合議制の執行機関としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足していると言わざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる。 つまり、二十年前から全くこの議論は変わっていない。
それから三つ目が、一連の教育荒廃現象が生じるようになったのは、教育勅語にあった愛国心や規範意識が現行法には規定されていないという規範欠落論が三つ目でございます。それから四つ目が、時代対応論でございます。これは先ほど伊吹大臣からも話があったかと思いますが、時代対応論。そして五つ目が、憲法改正を前提にした歴史的見直し論。
いじめ、非行、登校拒否など、教育荒廃の克服に学校現場の先生たちに掛かる期待は大きいが、今の子供は他人との付き合いが少ない孤立型になっている。社会が変化したのだから、昔の子供と違うのは当たり前。それを認めた上で、教育のプロとしての教師が共同行動を取る必要がある。もちろん、子供の教育は学校だけでできるものではない。地域、家庭との連携を深めるため、教師たちが外へ出ることが求められる。
改正を主張する人たちはいじめや不登校などの教育荒廃、少年による凶悪犯罪などと基本法を絡める、だが、それらの問題と基本法を結びつけるのは筋違いだ、基本法をきちんと読めばわかる、第一条は教育の目的をこううたっている、人格の完成、言いかえれば人間的な成長に目的を置いているのであり、教育の使命としてこれ以上のものがどこにあるというのだろう、教育をめぐるさまざまな問題は、基本法の施行から五十九年間、目的実現への
教育基本法のここが悪いからこういう今の問題が起きているんだ、だから教育基本法を変えなきゃいけないんだ、こういう論理だったら非常にわかりやすいんですけれども、その最も大切な、今教育基本法のここに問題があるからこういう教育荒廃が起きているんだという点が私は明らかにされていないように思います。 その点、非常に重要だと思うんですが、この点についてはいかがでしょうか。
今日の教育荒廃と言われるゆゆしき事態を前にして、一部の問題教師を排除するだけでは不十分であります。真摯にみずからの職務に専念し、常に日夜自己の研さんに精励しておられる先生方に対し、さらに意欲を高め、教育という崇高な職務に邁進してもらうための体制の整備も必要であると私は思うのであります。 教育改革国民会議の報告の中で、優秀な教師に対し表彰や給与面などの処遇優遇策を講じるという一項があります。
いろいろな意見書の中で、過度の競争が教育荒廃の根源である、こういう意見をたくさん書かれております。だから、今回の三法案に対しても、競争を助長する、そういう側面があるから反対だという意見が寄せられております。確かに、受験戦争というものには一部行き過ぎもあるとは思います。ただ、そこに教育荒廃のすべての原因があるというのは少し無理があるのではないかと私は考えております。
もし教育基本法が現場に行き渡ってこのとおり行われたならば、今日の教育荒廃はなかったのではないかとすら私は思っております。 教育基本法を変えたら教育の現場がよくなると考えたら、これは余りにも早計なのではないかと思います。政治家とか行政は、もっと現場の声を聞いて、現場でもっともっとしなければならないことがあるんじゃないかと私は思うんです。
そうであれば、国家百年の大計と言われる教育問題でありますし、国民の信頼を取り戻すために、これは大臣の所信表明の中にある言葉であります、取り戻すためにも、拙速主義を廃して、皆さんが指摘しておる教育荒廃の原因は何であったのかなど、欠けておる基本的論議を十分尽くした上で進めるべきではないかと思っています。
こういう動きに対しての一つの反論として、教育基本法を改正しても、今少年非行が減少するわけでもない、教育荒廃が解消するわけではない、今必要なのは個別の対症療法だ、そういう批判も当然あるわけで、この教育基本法を改正したから一気にそういう新しいきちんとした流れができる、そんなことではないことは十分わかっているわけですが、やはり対症療法的でなく、国の理念として、国が、この国の子供たちはどういうふうに育っていってほしいのか
私は、教育荒廃の元凶は何なのかと、本当にこれもお聞きしたかったのですけれども、まだ次の質問が残っていますので、質問しないで私の答えを申し上げますと、教育荒廃の元凶は過熱した受験教育にあると思っています。入試の重圧は、子供の成長をゆがめ、教育を壊していっている状況を迎えているのだというふうに思います。
むしろ、これが教育現場の五十三年間の土台でなかったからこそ、この教育荒廃があるのではないかというふうに私は思っております。私は、これが実行されなかった、それは教師だけではございません、親も含めて尊重されなかったということが今日のこの教育問題を生んだのではないかと思うのです。
よくやる手ですけれども、そんなものを待たなくても、この教育荒廃と言われる状況を打破するのにはもう少し積極的にやっていく姿勢も必要だというふうに思います。 なお、中教審の話が出てまいりました。局長の方から今、教員一人当たりの子供の数を欧米並みにすべきだという中教審答申も出されているというお話もありましたので、中教審答申に絡んで何点か質問をさせていただきます。
今、岩瀬議員の方から自民党を代表されまして、教育荒廃という手のつけられない状況に本当になっているのか、その認識はと、そんなお話もありましたし、教育効果と学級規模、それから財政問題で不可能ではないかと、そんな提起もされましたし、教員の持ち時間の軽減だけを考えているのではないか、こういう意味合いの御質問があったわけですけれども、これは、提案者からお話がありましたように、私どもは決して教員の持ち時間を軽減
私は、一九八六年、通常国会の代表質問で当時の中曽根総理に、いじめ、高校中退などの教育荒廃問題を取り上げ、政治が教育を大切にしないと未来から報復をされますよと訴えたことを思い起こします。今日までのこの十五年間、国の教育政策の無為無策が残念でなりません。 この四月に東京と沖縄で開催されるG8教育大臣会合のねらいは何でございますか。
この教育荒廃、学級崩壊が言われているこの大事な時期、政務次官という政府の高官をいただいたわけですね。後援会のゴルフも、それはコミュニケーションの場としては、あるいは意見収集の場としては意義があると思いますよ。議員だったらいいと思いますよ。
近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に責任を持つ合議制の執行機関としての自覚と責任感、使命感、それから次が大事なんですね。教育の地方分権の精神についての理解、自主性、主体性に欠ける。二十一世紀への展望と改革への意欲が不足していると言わざるを得ないような教育委員会が少なくない。
この時期を文部省は逸する手はない、こう思いますし、後ほどお尋ねしますけれども、子供のさまざまな心の問題とかあるいは不登校、いじめ、いろんなことで教育荒廃状況を起こしていることに対して文部省がチームティーチングとかいろんな施策を講じたことは、私は評価をしております。
それが今の教育荒廃の要因になっているということを私は申し上げたいのです。 だから、今本当に生徒が減少するこういう中で、高等学校へ入れるだけの校舎もあれば教室もあるわけですから、そういう中で受験制度そのものを抜本的に考える必要があるのではないか。恐らくこの私の見解には皆さんは納得はしないと思いますけれども、今一つの大事なところに差しかかっているわけですから、お考えいただきたいと思います。
「近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に直接責任をもつ「合議制の執行機関」としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、自主性、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足していると言わざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる」というような指摘をしているんです、この臨教審でいじめだとかいうことが
そういうことの背景の中で教育荒廃のさまざまな問題も出てきたわけです。細川さんのおっしゃっているような意味で質実国家という言い方がありますが、虚業が栄えて実業が滅びるようなそういう今までの状況に対して、実学が栄えるわけがないじゃないかという言い方もありました。